日本のフラワーデザイン黎明期から60年、花とともに歩み続けてきた副島三煌先生。その人生は、日本フラワーデザインの歴史そのものではないでしょうか。生け花の世界から新たな花文化へと舵を切り、佐賀県唐津を始まりの地として、現在、福岡にフラワーデザインスクールを開設。日本フラワーデザイナー協会(NFD)の創立にも尽力し、数々の受賞とともに次世代を育ててきました。海外研修や国際交流にも早くから参加し、WAFA世界大会の審査員・運営にも携わるなど、その功績は枚挙にいとまがありません。自然の花に寄り添う哲学を貫き、教えることの喜びを糧に励んできた副島三煌氏。花を愛する心と学びの場が、これからも長く続くようにという願いが、穏やかな笑顔の奥に息づいています。
フラワーデザイン事始め
思えば私の人生は、日本のフラワーデザインの歴史と共にあったと言えるかもしれません。もともと志していたのは、生け花の先生でした。21歳で東京へ出てアシスタントをしながら学び、いよいよ小原流の家元資格を取れるようになった頃、マミ川崎先生が広げ始めたフラワーデザインを知ったのです。 マミ川崎先生は、アメリカで技術を習得してきた先駆者で、日本で最初のフラワーデザイナーというべき方。「花卉装飾」と呼ばれていた時代に、フラワーデザインと名付けたのは、マミ川崎先生を取材した「女性自身」の記者だと言います。この時から、一般の方々に花をデザインするという日本のフラワーデザイン史が始まったのではないかと考えています。




フラワーデザインスクール60周年パーティーにて
文化として根付き始めて
郷里の佐賀県唐津市で開く予定の生け花教室に、少しでもプラスにできればと考えて、さっそくマミ川崎先生の1期生の方から習い始めたのですが、私自身がフラワーデザインに魅了されてしまって! すべての課程を修了して帰郷し、昭和41年9月に4名の生徒さんから、フラワーデザインスクールをスタートさせました。
特に宣伝はしなかったのですが、教室は順調にクラスが増えて半年で50人にまで成長。お花屋さんに「花のある暮らし・フラワーデザインを貴女に」という看板を置いてもらい、そこにお花を買いに来て興味を持たれた方が4人集まれば、1クラスにして教えていました。アレンジメントやブーケなど、それまではお花屋さんの仕事だったのが、一般の方たちがお稽古をすることで、暮らしの場でも花開くことになったのです。 また、翌42年には、福岡の西日本婦人文化サークルでも講師を務めることになり、生花だけでなくリボンフラワーなども指導。その頃のカルチャーセンターはハイソサイエティーの奥様方が主な生徒で、瞬く間にクラスは満席となり、文化として根付き始めたのを実感しました。



フラワーデザインスクール60周年パーティー/デモのコメンテーターとして
草分けの一人として
日本フラワーデザイナー協会が創立したのも、昭和42年のことです。赤坂プリンスホテルに、400人近くの方たちが集まって発足を祝いました。その時に撮った写真が、創立50周年記念誌にも掲載されていますが、これは私が提供したんです。懐かしいですね。
そもそも日本フラワーデザイナー協会は、フラワーデザイナーという存在が認知されてきたので、六本木のゴトウ花店(ゴトウフローリスト)の鈴木会長が提唱してつくられた、お花屋さんが中心の組織でした。当時の私 はそのことを知らなくて、創立メンバーとして参加。だから本当に、草分けの一人なんです。翌43年の九州地区支部委員を皮切りに、50年から九州支部長を務め、52年に理事に就任。2期4年間を理事、続いて11期22年間(現在は改正)を常任理事、そして平成15年よりは副理事長を務めました。
作品面でも、昭和43年に開催された協会主催のフラワーデザインコンテストでは、第1位をいただきました。その後も生徒さんたちにも参加を推奨し、叱咤激励して育てて賞を取らせていたので、ちょっと自分も頑張らないといけないと、47年に始まったグランプリで第1位と文部大臣賞を受賞。それで私のコンテストは終り。生徒さんたちの参加はずっと続いているので、うちの教室が一番多く受賞者を出していると思います。



NFD設立時
海外に研修へ
最初にアメリカ・オハイオ州の世界的フラワーデザイナーであるビル・ヒクソン先生のスクールに勉強に行ったのは、昭和44年。まだ1ドルが360円の時代です。その時は1か月コースでしたが、その程度の期間では何の学びにもならないですよね。私はウィンドーディスプレイなどを見るだけでも得るものがあると思っていたので、週末になるとワシントンやニューヨークに出かけていました。
当時は、まだ日本人の旅行者などほとんどいない頃。ホテルでは世界的指揮者の小澤征爾さんや、和食のお店で小説家の遠藤周作さんにバッタリとお会いして、同じ日本人同士ということで2人で立ち話をしたこともあります。 ヒクソン先生のスクールには、47年にももう一度。海外に研修に行くこと自体が珍しい時代だったので、ここでも草分けの一人と言えるでしょう。

WAFAは大いなる財産
昭和56年には、当時副理事長だった池田孝二さんらとともに、40人くらいの団体でヨーロッパへ勉強の旅へ。スウェーデンの後にイギリスの王立園芸学校に行った時のことでしたが、NAFAS(1959年設立)というフラワーデザインの全英組織である協会の方たちから、フラワーデザインのインターナショナルをつくりたいというお話を聞きました。それで各国から一つの団体しか入れませんが、日本フラワーデザイナー協会が加盟しませんか、とお誘いを受けたんです。そうして1981年に設立されたのが、WAFA(World Association of Floral Artists : 世界フローラルアーティスト協会)です。日本代表として、第1回イギリス世界大会から毎回参加しています。第6回南アフリカ、第7回スコットランドでは、審査員を務めました。3年に1回で設立前からですので、もう40年以上関わっていたことになりますね。 平成17年の第8回WAFA世界大会は、私が審査運営委員長を務め「和~ハーモニー~」をテーマに日本で開催しました。会場のパシフィコ横浜は大盛況で、この国際交流の経験は日本フラワーデザイナー協会にとって、そして私にとっても、素晴らしい財産になってくれたと思います。






第8回WAFA世界大会
海外から先生方を招聘して
アメリカンスタイル、イギリススタイルと変遷してきた日本のフラワーデザインですが、現在はドイツスタイルが主流でしょう。平成に入ってからは協会からも研修ツアーを組みましたし、私自身もドイツでウルズラ・ヴェゲナー氏とともに国際フラワーデザインスクールを開校していたポール・ヴェゲナー先生のクラスには、年に2回くらい20年通いました。途中でうちのスタッフから、自分たちは外国まで行けないと言われ「ではお招きしましょう!」と一念発起。平成4年からは、先生方に来ていただくようになりました。
ヴェゲナー先生や同じくドイツのフロリストマイスターであるペーター・アスマン先生をわざわざお呼びするので、思い切って福岡県の糸島市にセミナーハウスも建設。建築家の吉村順三さんの内弟子だった方にデザインしていただいて、とても素敵な造りになりました。庭も広く取って、アスマン先生のグリュンベルクにうかがった時に出会ったドイツスタイルの園芸士さんに、2週間ほど教えに来てもらったんです。たとえば チューリップの球根を植える時は、並べないでザルからパッと捨てるように蒔き、埋める。すると球根が散らばって均一ではなく、自然に生えているかのようになると。お金はかかりましたが、庭で花を摘んでデザインするためでしたから、悔いはありません。手入れをしてくれていた方が老齢になり、残念ながら数年前に手放しましたが、良い思い出がいっぱい残っています。

資格試験で、本当のフラワーデザイナーを
昭和58年に「フラワー装飾技能士」の国家検定が、厚生労働省から制定されました。日本フラワーデザイナー協会でも、昭和42年から事業目的である花文化の普及を目指して「フラワーデザイナー資格検定試験」を実施しています。私も大いに尽力した制度です。技能水準の向上に寄与したと厚生労働大臣表彰などの各種表彰もいただきました。これまで多くの合格者を輩出してきましたが、景気の減速感が長引く日本の経済状態からの影響は否めません。だからこそ、これからの協会では文部科学省公認のような形で、誰でも受けられる技能検定を加えるなど考えてもよいのではないでしょうか。花が好きな人、そして習っている人はいっぱいいます。そういう人の中で、まだまだ勉強したい方、突き詰めてみたい方が協会に入ってきて、本当のフラワーデザイナーとして活躍してくれるのが理想です。



NFD会員専用「eラーニング」動画より(テーマ:ビーダーマイヤー)
「哲学がある」という言葉は宝物
フラワーデザインというより、‟花のデザイン”という言葉が好きなんです。私自身が制作する作品に対するこだわりは、フォーカルポイントに挿しましたというような感じが好きではないので、検定試験のような花はつくりません。寸法が決められ吸水フォームに挿すと、そこに力が入ってしまうけれど、自然界の花はどんな花でも優しいんです。南アフリカに行った時に、バンクシアのような強い花でも、自然に咲いているのは本当に優しい風情でした。ですから私は、自然の花のように、というのを一番大事にしています。 想い出に残っている言葉で、3人の方から同じように褒めていただいたんです。西日本のカルチャーセンターでお世話になった事務局長の方から「教え方に哲学がある、将来が楽しみだ」と。そして、アスマン先生とポール先生も「副島の作品には哲学がある」「あなたは緑の目を持っています」と言ってくださいました。すごい褒め言葉だと思うんですね。とても嬉しくて、この言葉は私の宝物です。

レッスンプロとしての誇り
私はずっと、生け花に代わるものとして暮らしの花を教えてきました。教えることで、自分では1つしかつくれないけれど、習ってくださる方が2人いらしたら、作品が3つになるんです。そこからまた学んで、次々と花文化が広がっていく。だから私は教えることのプロ、レッスンプロ。フラワーデザイナーというのは、作品をつくることを仕事にしている人たちのことです。 教えることが大好きです。花を習ってくださる方は、大切ですし、可愛い。教えるほど、どんどん上手になってくれます。それでも最初から個性やデザイン力があるとか、そんな簡単なものではありません。基礎を磨いて、磨いて、磨いて、やるだけやって、やっとオリジナリティーが出てくるんです。生徒さんは、いわば自分の作風を受け継いでくれる分身のようなもの。長く習ってくれている人は、副島の作風にプラス自分を入れてくださるので、より嬉しい存在です。その人の持ち味が出て、さらに素晴らしい作品が生まれて、それを拝見するのが私の幸せ。今84歳ですけれど、1日でも長く教えていたいです。


花を習う方が、いつまでも続きますように
花の好きな人はいっぱいいらっしゃるので、1か月でもお稽古してくださったら、家での飾り方が変わると思います。資格を取らなくても、ちょっとハサミの使い方を習っただけで、生涯お花を 生かす切り方ができるようになるんです。だから花を習う方が、いつまでも続くようにありたいと思います。庭に咲いている花でも、飾る気持ちがあればいいんです。その想いこそが、大切なのですから。

NFD機関誌「フラワーデザイナー」2017年冬号掲載/NFD設立50周年に寄せて
フラワーデザイン界のレジェンド、副島三煌NFD特別名誉本部講師にインタビューしたのは、『福岡フラワーデザインSchool』設立60周年のパーティーの日。世利靖子NFD特別名誉本部講師や甥の副島正英NFD名誉本部講師をはじめ、錚々たる来賓の皆様に囲まれて穏やかに微笑んでおられました。お話しを始めると、歴史の証言とも言える様々なエピソードとともに、時に苦言を交えながらこれからのフラワーデザイン界への期待を語られて、時間の経つのを忘れるほど真摯に向き合っていただきました。まだまだ現役のフラワーデザイナーで在り続けている副島三煌先生。70周年のパーティーでもぜひお邪魔したいと思います。
